📔やすかのブログ
ワクチン接種に始まり
6月となり、今年も折り返し地点となりました。
今月は、所属団体の会議や総会、日常の仕事等を経る中で、現在の小学校支援員という職業上、第一回目の新型コロナウイルスのワクチン接種を受けました。このワクチン接種は、大規模会場での土日の当日キャンセルされた枠で受けるものでしてた。ですので、会場に行った先では、「もしかすると、来ても受けずにお帰り頂くこともあります」といった趣旨の説明を受け、とりあえず待つ…という状況でした。この日は、キャンセル分があったようでして、私も1回目のワクチン(モデルナ社製)を接種してきました。
大規模会場での接種ということもあり、検温、問診、注射、健康観察の各場所が設置され、順を追って誘導されて終える具合でした。注射そのものは、インフルエンザのワクチン接種の痛みとそう変わりない感じで、違いは、接種した腕に、翌日に生じた筋肉痛のような痛みです。しかし、更に翌日になると痛みはだんだんとなくなりました。第2回目は、7月中に予定されています。2回目がどんな具合なのか...来月にも追記したいと思います。
6月は、色々思うところがありまして、個人的なことではありますが、本、書類等の数週間に渡り大幅な整理をしました。隙間時間を見つけながらのことであるため、長期に渡りましたが、半分以上の使わなくなった本、とっておいた大学時代の講義ノートなど、想いが残るものではありましたが、処分しました。
懐かしいことに、大学時代に留学生と親交がありまして日記交換し、言語の添削し合ったノートまで見つかったのですが、さすが私…でして、やはりF1レースのことを英文記載していました。当時からの趣味に変化がないことを再認識です。また、見つかったのは、高校時代の受験勉強の痕跡もあったりでして、ついつい懐かしく見てしまいました。
始める前は、どうしようかな、やはりそのままにしておこうかな…などと心の曇りがありましたが、整理を終えてみると、案外、心は晴々としました。
そして、6月にニュースとして注目ありました夫婦別姓にかかる問題が、私としてはとても気になりました。
個人的には、別姓を認める時代ではないかと考えています。これは、皆が別姓制度とるべきということではなく、「別姓の選択肢を選べるようにすべき」という趣旨です。同じ姓(名字)となるも、違う姓となるのも、どちら選択をも選べるようにすべきと考えます。
理由は、同姓制度は「家制度」の名残の制度であり、多様化する現代社会と沿わない部分があると考えるからです。また、同姓を合憲と考えるか否かの問題ではなく、婚姻による姓の選択は、当事者の合意による選択なので、法の適合性の問題と考えるべきではないと思います。長年にわたり定着した姓を変えることにより、仕事上、日常上、手続きのうえで変更すべきものが多すぎるために、不都合が生じる人も少なくありません。現代社会は、様々なものに登録を求めらる時代です。これを変更しなければならない状況は、不経済だと思います。マイナンバー制が始まり、個人の認識がされているのに、「姓が違うから、家族という認識ができない」などということはないはずです。
そして、先の理由に加え、少子時代に突入したことにより、現代は一人っ子の家等も少なくなく、どちらの姓をとるべきか家のことを不安視し、結婚に至りにくい場合もあります。少子時代を迎え、婚姻数を増やす手段としても、婚姻上の選択を増やすことは、政策的に考えるべきだと思います。柔軟な選択肢のある社会を整えるべきです。
また、夫婦が別姓であると子の地位が不安定になるという意見も聞かれますが、今の時代、婚姻もあれば離婚もあります。次の日には、子どもの姓が変わる時代です。多様な姓の在り方を認めることが、多様な人権を守ることにつながると考えます。諸事情で事実婚の家庭もあります。多様性を認めるべきという国際的な潮流からすると、「あの子の両親は名字が違う…」という特別な見方をする時代でないはずです。精神的にも先進国となるよう政策的な部分から変わるべきだと思います。
更には、姓を同じくする、しないというものは当事者にとって切実な部分であって、別姓だからと言って他人に迷惑をかけることではないはずです。他人の命や財産を奪うほどの多大な迷惑がかかるのであれば、別姓をとるべきではないのでしょうが、そういうことではないのに、どうしてそこまで反対するのか、疑問でなりません。切実な立場の当事者に冷たすぎると思います。
女性だからの視点といものではなく、精神的な発展を遂げる社会を考えば、この問題は、柔らかに考えてほしいものです。